asagao’s blog

asagaoの観察日記。

モンテ・クリスト伯 読書メモ79

暁の白薔薇。
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翌朝、動かぬ人となったヴァランティーヌ。

ベットから滑り落ちた彫像のような白い腕。

邸に女性の悲鳴が響き渡る。
人を呼ぶ声に、医師と父親が顔色を変える。
慌ただしい人々の動き、そして動揺。

娘を失ったヴィルフォールの狂気にも似た悲しみ。




デュマは、モンテ・クリスト伯の中で、数々の「死」を描いてきた。

その中でも、最も神秘的な姿。

胸を打つ、うら若き乙女の死。

「死は、それがまだ崩壊を見せはじめる前、たんに不動を思わせるだけにとどまっている場合、すなわちそれがまだ神秘の域にとどまっていて嫌悪の情を起こさせるまでに至らない場合、人の心をひきつけずにはおかないのだ。」※



人をひきつけずにはおかない「死」。



人は日常「死」から目をそらして生きている。

しかし、ある時他者の「死」を眼前にすると、その不可思議なるものに心を奪われる。


畏怖、未知、そして、必然。


人は思い巡らし、その未知なる場所へ行き着いた者へ、羨望とも畏敬ともいえない感情を持つ。


それは、死した者が動物でも人でもかわりない。


ただ、「死にたどり着いた者」の称号が与えられる。


「死は終わり」か、「死は安息」か。

「死は消滅」だろうか。

私は、そうは思えない。

繰り返し、繰り返し、寝ては覚めるように、生命は続いていく。

この世にはルールがある。

人が知っても知らなくても、そのルールにのっとり光は進み、時は流れ、物は重力を持つ。


生命は寝ては覚める。

それは、この世のルールではないだろうか。
目に見えるこのルール。
それが、証拠だとは言えないだろうか。


死は、疲れたら眠るのと同じ。
生は、休んだ後、力を得て活動を始める事。

生死は恐れるものではなく、もともと持っている生命の性質なのではないか。

とすれば、死という終末を恐れる必要は無いのではないだろうか。

とりとめもなく、「死」というものを思索してみる。






だがしかし、それとは別に「死」には問題がある。



残された者に喪失という悲しみが訪れる事。



ヴァランティーヌの元へ駆けつけたマクシミリアン。

我を忘れて。


※アレクサンドル・デュマ作、山内義雄訳、モンテ・クリスト伯七、岩波書店。